向井承子さんは1969年から約10年間、日本婦人有権者同盟(同盟)で機関紙編集に携わり、政治教育委員、中央委員などを務めた。その後フリーの執筆活動に入り、著書に『小児病棟の子どもたち』『たたかいはいのち果てる日まで』などがある。北海道・札幌で育った向井さんは、大正デモクラシーの香りを受けた両親の影響で、子どものころから市川房枝の名前を知っていたという。私にとっては「市川先生」なのでと話を始めた。
61年大学を卒業後北海道庁に務め、女子職員第1期生として広報誌の編集を担当した。町村金吾知事の時代で「知らしむべからず、よらしむべし」と記者クラブの発表のままを書くだけだったが、全道を歩き回り産業構造改革の実際を見るなど勉強もさせられたと思う。当時道庁の審議会委員だった同盟の札幌支部長小端千恵子さんが婦人の代表としてきちんと意見を発し、凛とした姿勢で話す姿に憧れ、家に伺って市川先生の話をお聞きしたこともあった。その後結婚して上京し、生き甲斐を求めて鬱々とした気持ちを小端さんに書き送ったところ、市川先生のところに行きなさいと手紙を下さった。
1969年3歳と4歳の子どもを連れて市川先生をお訪ねした。いきなり手を握って「よく来てくれたね。きみのような人、待ってたんだよ」とおっしゃった。学んで学んで社会にいろんなことを返しなさいとも。当時の同盟事務局長の紀平悌子さんに「紀平くん、頼むよ。編集をやっていたようだから機関紙の編集しなさい」と言われた。
婦選会館の3階にあった同盟の事務所には眼光炯炯たる女性たち、戦前からの活動家たちがいて、実に自然体で「はい、こっちおいで」と声をかけてくださった。婦選会館は学習会をやっているのだから入って勉強しなさいと言われ、私の子どもたちには折り紙を折ったり飛行機を飛ばしたりして子守りをしてくださった。しかし、その後しばらくして近藤真柄さんに言われたことがある。「子どもだってこんな所に連れて来られては迷惑だよ。子どもに何を返せるのか。あなたの学んだことを返して行きなさい。次世代に伝えその人がまた次世代に伝えるという原点を、ここで学びなさい」と。
婦選会館は初めて見る女性たちの集まりで、私にとってはワンダーワールドだった。最初の驚きは自分の言葉で言い合い、論争しながらもまとめる力を持っていることだった。それまで見てきたのは文句は言うものの、自分の言葉で言うことはできない女性たちだったからだ。一方には市川先生とともに働き活動を支え合う人たちがいて、機関紙発送など何でも自分の出来ることを誇りを持ってやる。チラシを配るときには人の目を見て必ずその手に、自分の意思を持って渡しなさいと言われた。道庁での仕事は考えることは誰かがやって私は手足に過ぎなかったので、1人ひとりが考えを持って、納得してチラシを配るということ、そのこと1つにも感動した。メガホン片手の青空演説会でも1人ひとりに語りかけるように話された。
1967年東京都知事選挙で美濃部氏を推され、美濃部都政にも関わられたので、同盟でも都政の勉強会をした。70年代に入ると日米安保条約改定、沖縄返還、日中国交正常化などの政治課題と、オイルショックや公害問題などが束になってやってきて、次々と学習会で取り上げられた。沖縄については市川先生は復帰前から気にかけておられ、すでに同盟の支部も立ち上げていた。沖縄に行って支部長の外間米子さんに何度か取材したが、沖縄の女性がどんなに身分差別の底に置かれているかということを切々と訴えられたことを覚えている。
市川先生が理想としたのは、学習の場としての婦選会館と行動と活動の要としての同盟が車の両輪としてやって行くということだったと思う。陳情にも行ったが、常に言われたことは「党利党略に惑わされるな。政党には近寄るな。近寄ってもいいが近寄り方がある。私たちの意見を持って、取るべきは取り、押すべきは押す」ということだった。
私が何か書きたい、したいというときに「君が1人で都庁の前に立っても何も変わらないよ。1人で叫んでも誰も聞いてくれない。だから、まとまりなさい。人をまとめてたくさんの人で行動しなさい」とおっしゃった。もう1つ忘れられないことは「どのような細い糸でも切れそうになっても手放してはいけない。手放しさえしなければ糸はいつか縄になる」という言葉で、戦時中戦争協力をしないと生きていられない時代の中で細い糸を持っていようと思われたのだろうか。今も私の座右の銘になっている。
1971年参院選東京地方区での落選、74年参院選の全国区2位当選、80年にはトップ当選された。81年1月初め、私が東海道線に乗っていたところ、先生が乗ってこられた。顔色が悪く疲れていらっしゃるように見えて、中学生の息子に荷物を持って上げてと言うと、「ああ、そうか、頼む」とおっしゃった。それまで先生が人に荷物を持たせることはなかったので、ショックだった。荷物の中に入っていたのは婦選魂。歴史の中にある先生の魂のようなものを子どもたちは持って差し上げたのではないかと思う。その1週間ほど後に先生が入院なさったと知った。(や)