市川房枝は、「婦選は鍵なり」「平和なくして平等なく、平等なくして平和なし」という信念の元に数多くの女性たちと活動を続け、大きな功績を残しました。

その活動の精神は、今日も「女性と政治センター」に受け継がれています。

愛知県出身(1893~1981)。女子師範学校(現在の愛知教育大学の前身)卒業後、教員、新聞記者をへて上京し、「大日本労働総同盟友愛会婦人部」の書記を務めたのち、1919年に平塚らいてうと共に「新婦人協会」を結成。1921年に渡米、シカゴやニューヨークで働きながら米国の女性参政権・労働運動を見学し、帰国後1924年に「婦人参政権獲得期成同盟会」結成に参加。「婦人(女性)参政権が平等で平和な社会を築く手がかり『鍵』である」という信念のもとに女性参政権運動を展開し、敗戦を経て1945年の参政権実現後も女性のエンパワーメントの推進、平和活動や汚職政治の撲滅に尽力しました。 

1975年の国際婦人年には、全国組織の女性団体に呼びかけ「国際婦人年日本大会」を開催。国会においても超党派の女性議員を組織し、国連の女子差別撤廃条約(Convention on the Elimination of All Forms of Discrimination Against Women – CEDAW)の日本政府早期批准を求める最大プレッシャーグループの先頭に立って活動しました。その結果、1980年7月に条約の署名参加が閣議決定され、同月デンマークで開催された第2回世界女性会議では、女性初の大使を務めた高橋展子駐デンマーク大使により署名がなされました。翌1981年市川房枝没後も条約批准に向けた活動は続けられ、男女雇用機会均等法、家庭科の男女共修や国籍法などの改正を経て1985年に批准されました。 

参議院議員当選5回(通算25年の在任)。「出たい人より出したい人」をと、有権者に推し出される「理想選挙」を自ら実践。純無所属を貫き、1980年の第12回参議院議員選挙では87歳の高齢にもかかわらず全国区から278万4998票の大量得票でトップ当選しました。1981年、心筋梗塞により87歳9カ月の生涯を閉じました。

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当センター「市川房枝記念展示室」では、市川房枝の素顔や日本の女性参政権運動史を体感することができます。