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維持員のつどい記念講演「コロナ禍の日本と政治」御厨貴さん(東京大学名誉教授)

創立58周年記念維持員のつどい

講演内容をYoutubeにて限定配信(動画時間:41分47秒)

 講師の御厨貴さんは政治学が専門で、東京都立大学、政策研究大学院大学、東京大学先端科学技術センター等の教授を歴任。東京大学先端科学技術センター名誉教授。1980年代婦選会館(当時)政治学教室講師を務めた。

 

 自然災害は「いつか」やってくるではなく、「いつも」やってくるになってしまった。2011年の東日本大震災の後、戦後に対して「災後」という言葉を考え使ようになった。戦後型復興は規模を大きくしていけば社会はますます発展するのだという考え方だったが、東日本大震災の災後は縮小モデルに変え、それを通じて日本社会全体を変換していくことを考えたが、復興の在り方は新しい方法にはなかなか変わらなかった。

 

 今、驚くべきスピードで世界を席巻する感染の災害、新型コロナウイルスが勃発した。自然災害は自然と人間が建てた建造物との物理的崩壊に尽きるが、コロナ感染は人そのものを襲う。しかも自然災害よりも予知が困難である。自然災害は人と人のつながりを強めて絆を新たに強める効果をもたらした。我々は1995年の阪神淡路大震災以来、ボランティアという言葉を知った。その地域に全く関係ないがその地域を助けるために他所から人が入ってきて様々な活動をし、人と人の交わりが新しい絆を作り上げる。

 

 しかし、コロナ災害は全く違う。人と人が切り離され感染者を孤立させる。感染していない人も他の人との関係性を絶たれ、逼塞を余儀なくされて、家族も分断される。動くなと言われ総蟄居体制になってしまう。自然災害のような物理的破壊は行わないが、人が集うことや建物、施設、組織が感染予防と感染そのものによって閉鎖という憂き目をみる。近代が生み出したものとその関係性が全て否定されることになった。

 

 自然災害の場合は崩壊と汚染された地域も出るが、明確に線引きができる。ところが無自覚に人を感染させてしまうのがコロナ災害である。自然災害は過ぎ去ってしまえばある程度ひと安心をするが、コロナの災害はいつ過ぎ去るかわからない。自然災害には災後があるが、コロナには災後が見えない。こういう中で唯一の救いと思われたのは、SNS(Social network service)の活性化と応用化である。皮膚感覚の存在は失われたが、バーチャルの繋がりはこの半年間で圧倒的に増えた。閉塞状況の中でスカイプやズーム、アプリを使ってのテレビ会議型の交流が始まる。コロナ災害の後にはウエブのモデルは戦後型モデルを乗り越えて定着していくと思われる。コロナが妨げた1つひとつの再生はどうなるだろうか。バーチャル化の勢いは止められない。人と人との繋がりはコロナ災害以前とは変わるだろう。

 

 

 コロナ禍の中、8年も続いた安倍政権が崩壊した。コロナ禍を日本政府が世界全体と比較した場合全く無能であったとまでは言わないが、安倍政権がいい手を打つことが出来なかった。歴史的にみても長期政権から交代した際には、若返りや政権奪還でがらりと変わる印象が強かった。吉田茂から鳩山一郎へ、佐藤栄作から田中角栄へなどの場合である。今回の安倍晋三から菅義偉への継承では、官房長官から総理になったのは安倍さんと同じだが、その後を継ぐとは思われていなかった菅さんが、突如登場した。菅さんの総裁立候補演説も就任後の演説も、安倍政権の継承を繰り返す。最初の段階では安倍さんから大きく変わるよりも継ぐということに、人々はこの政権の意味を見出し、支持率の高い政権としてスタートした。それが崩れかけているのが今の事態である。

 

 政権運営は安倍政権の間に構造化した1つの体制になってしまったということが、安倍さんの退場で明確になった。安倍政権は賛否両論のある政策を拙速に進めようとし、政治主導で経済や社会保障、安全保障を含めて政策を進展させることに尽力した。アベノミクス、地方創生、働き方改革と次々にキャッチコピーをアピールする「やってる感」の政治。内政も外交も官邸主導で迅速に運営できるような体制に制度化していく。国家安全保障会議や内閣人事局の創設はまさにそれに当たる。

 

 官邸主導は縦割りに横串を刺すという制度である。省の中でその問題について最もよく知っているものを集めてチームを作り、「やってる感」とスピード感を大事にした。地位はどうあれ問題を解決するために人を集めるという姿勢は必ずしも悪いとは言わないが、最終的には安倍さんが決定する。この体制がおれ好みの政策をやる、反対の人間は辞めさせるという任免権の問題を生む。各省の人事も内閣人事局によってうまい体制を作っていくという当初の目論見は悪くなかったが、現実に菅官房長官の下で使われることになると行き過ぎる。官邸の意向に沿うかどうかが人事の評価軸になってしまい、官邸に対する過剰な忖度を生んだ。

 

 安倍さんは政策課題を口にするが現実のものとしなかった。憲法改正もその1例。若手議員にはイデオロギーに深入りさせず、ひたすら選挙で勝ち抜くよう求め、選挙に圧勝しさえすれば政権が安定することを証明した。この8年間で安倍さんのイデオロギー的基盤に正面から反対する者はいなくなった。8年とはそういう事態を招く。

 若い人の安倍政権への支持率が比較的高かった理由は、元々政治への期待度は低く、安倍政権が自分の進路を邪魔しなければ安倍政権があってもいいという感じだった。若い人が政治によって何かを変えたいと思い始めると、菅政権は「やってる感」の政治からきちんとやっていける政治に転換を迫られることになるだろう。

 

 

 学術会議については、研究者学者は学問の自由のために避けているものに手を付けると大反対になり、妥協できない。菅さんも妥協しない。菅さんにとって任免権は非常に大事なもので、自分の言うことをきかなければ辞めてもらうというやり方を、学術会議にも応用してしまった。学術会議はそんなものではない。政府が学術会議の行き方に待ったをかけたいということならば、学術会議に論争を挑むのはいい。学術会議には多様性があると思う。例えば軍事研究についてもそれぞれの考え方があるのだから。自分が気に入らない何人かの人間を任命しないというのは一種の脅しであり、官僚にはある程度成功したかもしれないが、学者はこのような脅しには一番反発する。ほかの任免権とこれを一緒に考えるのか。この人に政権を任せていくのは何となく危ない気がする。全てを任免権で決め、政権がますますこの調子を強めていくことに、自民党の中には同調する動きが今回もある。菅さんは「お答えを控える」ではなく、答えは必ずしなければいけない。それは総理大臣を担う人の責任感である。この政権がこの後どうなるか、皆さんと一緒に見ていきたいと思う。(や)