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女性展望カフェ「山川菊栄と市川房枝」伊藤セツさん(昭和女子大学名誉教授)

 大学では経済学部で社会政策を専攻した伊藤セツさんは、1960年以降ずっと山川菊栄に関心があった。しかし教授から与えられたドイツの政治家クラーラ・ツェトキーンの研究の中で、彼女の提唱した国際女性デー史にも目が移っていく。日本に国際女性デーを取り入れたのが山川菊栄だったという。

 ベーベルの『婦人論』初完訳は菊栄の箔の1つである。ツエトキーンを初めて日本に紹介した人だという点でも、菊栄は自分にとって貴重な人であるが、菊栄がドイツ革命に深い関心を持ち、この中でツエトキーンに注目するに至ったことを知る。

 

 後半では市川房枝については研究したことがなく、よく知らないと前置きしつつ、山川菊栄と市川房枝の略年表を作成して対比を試みた。菊栄と房枝は同年代を生きた女性だったが、2人の接点はあるのか。房枝が大日本労働総同盟友愛会婦人部の書記だった1919年ころ、菊栄はILO自体に批判的で、階級闘争は組合運動としてやるべきであり、ILOでは出来ないと主張した。20年房枝が平塚らいてう、奥むめおらとともに新婦人協会の発会に参加した時、ブルジョア婦人運動と批判もした。菊栄は21年社会主義婦人団体「赤瀾会」を、22年国際女性デー記念「八日会」を結成。23年にはベーベルの『婦人論』完訳が成るが、9月関東大震災に遭う。一方房枝は21年渡米、24年帰国と同時にILO東京支局に勤務。24年房枝らが婦人参政権獲得期成同盟会(25年婦選獲得同盟と改称)を結成したとき、菊栄は一旦名を連ねたもののすぐに退会しているという。

 

 菊栄は大震災後、住まいも兵庫、鎌倉、東京と転々とする。1931年以降評論以外具体的活動はなく、国策には消極的抵抗、女性指導者の国策協力を批判した。房枝は婦選獲得運動を活発に展開するが、40年婦選獲得同盟は解散を余儀なくされ、42年には大日本言論報国会理事に就任するに至った。

 戦後1947年、菊栄は片山哲社会党内閣で労働省婦人少年局長就任、51年退官。房枝は公職追放解除後の53年参院議員となった。6038日の国際婦人デー50周年記念中央集会で2人は同じ壇上に上り、野坂竜、帯刀貞代とともに婦人運動の歴史を振り返ったが、殆ど交流のなかった2人にとって、画期的な場面だった。菊栄は理論家・評論家であり、房枝は運動家・政治家であり続けたと語った。

 2人のメッセージは「ほんとに社会主義をいかす生き方を学びたいではありませんか」(菊栄)と「平和なくして平等なく、平等なくして平和なし」(房枝)。

 

 最後に触れたのは女性や女性運動の今。昨年パリテ法(政治分野の男女共同参画推進法)が出来た時、また「婦選は鍵なり」と唱えた市川房枝の時代が来たのではないかと思った。房枝の行動力を繋げなければいけない。今、政府統計問題の嘘が暴かれ、「女性の輝く」も放っておけば嘘になる。嘘をひっくり返すためにはどうすればいいか。菊栄の「姉妹よ、かく疑うことを習へ」が浮かぶ。

 国際女性デーは商業主義に傾いている、催しも数多い。今年も38日には国際女性デー中央大会とウイメンズ・マーチが開催される。お互いがもっと知りあうべきではないか。中心的な目的には多少のずれがあるかもしれないが根本的なところではそんなに違いがないと思うと熱っぽく語った。 (八)