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講座・私の市川房枝論 「女性の権利の政治外交史―昭和百年から考える」村井良太さん(駒沢大学教授)

 村井良太さんは駒澤大学法学部教授で専攻は日本政治外交史。『政党内閣制の成立1918-27』(2005年)『政党内閣制の展開と崩壊』(14年)『佐藤栄作』(19年)等の著書がある。21年2月『市川房枝ー後退を阻止して前進』が刊行された。

 

 日本のデモクラシーは敗戦や占領によって与えられた、或いは戦争への反省があるからデモクラシーを大事にしなければならないという考え方は誤りである。戦前の日本においてもデモクラシーは重要だった。戦前は婦選運動家、戦中は戦争協力者、戦後は平和と議会民主制のチャンピオンとされる市川を、この3つの時期を通して見ていきたい。政治外交史の観点から市川にはどういうゲームのルールがあったのかを理解しなければならない。そこにこそ政治史の意義があるだろうと考える。婦人運動は市川の根本である。参議院、選挙、国民運動、国際的連帯などデモクラシーのルーター(補助推進装置)に関わる所で活躍した。

 

Ⅰ「憲政常道」下での活動 1893(明治26)~1936(昭和11)年

 市川の生まれた時代は、幕末から明治にかけての開国和親の風潮によって、多くの日本人が釜山やアメリカへと海外に出て行った時代でもあった。やがて大正デモクラシーの風が吹く。故郷での教員、新聞記者時代を経て東京に出た市川は、兄の友人である山田嘉吉・わか夫妻のもとで学ぶ中で、平塚らいてうと出会う。大日本労働総同盟友愛会婦人部に勤めるも数か月で辞職、らいてうに誘われて新婦人協会の活動に加わるが、2年後、新婦人協会理事を辞任して渡米。市川の関心は婦人労働問題にあったが、アメリカの婦選運動の指導者アリス・ポールの言葉が、その後市川が婦人参政権獲得運動に乗り出していくことを決定づけた。「労働運動は男の人に任せておいたらいい。婦人のことは婦人自身でしなければ誰もするものはない」と。

 日本に帰国したのは関東大震災翌年。開設されたILO東京支局に勤務する一方で、婦人参政権獲得期成同盟会(翌年婦選獲得同盟)の結成に参加。3年後ILOを辞職し婦選運動に専念することとし、婦人三権(婦人参政権・婦人公民権・婦人結社権)の実現を目指す。折りしも男子普選実現。憲政の常道下で政友会と民政党による二大政党制、政党内閣制が確立しており、市川は憲政の常道を活用して運動を進める。男子普通選挙では婦選に理解ある候補者の応援を与野党を問わず展開し、それは吉野作造の批判を受けもする。さらに選挙権の正しい行使を目指して選挙革正運動にも取り組む。

 1931年満州事変勃発。翌32年五・一五事件により犬養首相死去。政党内閣制は途絶え、婦選運動は壁に突き当たる。市川は「私共は少なくも政党内閣が出来る迄は、憲政の運用が正常に復する迄は、(中略)尚隠忍自重せざるを得ない立場に置かれている」と記している。

 34年、雑誌「朝鮮日報」で官僚内閣よりも政党内閣に期待を寄せている論者として、市川は「私たちのように進歩的運動にたずさわっているものはどうしても政党内閣の生まれることを期待します」と述べている。この言葉こそ私が市川を研究してみたいと思った出発点である。29年世界大恐慌以降ヨーロッパでも議会政治が批判され、政党の腐敗堕落無能が問題にされた時代に、市川がそれに背を向けていたことは、非常にユニークである。市川は運動のために政党政治を必要とし、選挙結果の正当性の向上を図らなければならなかった。選挙粛正運動へと動き出す。36年の二・二六事件により、政党内閣制への回復は見込めなくなった。

 

Ⅱ 戦時・占領下での活動(1936(昭和11)年~1952(昭和27)年

 この時期の市川については戦争責任の問題が注目を集める。女性が女性の加害責任を問うという問題意識からだが、女性の中だけで問うことに意味があるとは思えなかった。市川には開戦責任はなく、市川が協力しなければ戦争が早く終わったということもない。戦時下の活動の目的は女性の境遇の問題であった。

 1937年7月盧溝橋事件勃発。「2か月間を煩悶の中に過ご」した市川は「ここまで来てしまった以上、最早行くところまで行くよりしかあるまい。」「婦人の立場から国策に協力するために政府や男子と協力する事が婦選獲得の一段階になるだろう」と記し「悲しみ、苦しみを噛みしめて、婦人の護るべき部署に就こう」(『展望9月号』)と述べる。これが市川の戦争責任論とされている。この文章は8月31日に書かれたが、前日8月30日市川が述べた言葉が、加藤シズヱ評伝に出て来る。マーガレット・サンガーの歓迎会で15年前にアメリカで見たサンガーが人々に無視され政府に抑圧されても屈せずに産児制限運動を続けていたことを高く評価して、自分の信念に忠実であろうと語っている。

 婦人団体の問題も強く意識した。1920年代までは婦人運動は自由主義、社会主義の立場からのものが活発だったが、満州事変後保守的な婦人団体が活発化し、男性の官僚の指導や援助を受けていた。陸軍省の国防婦人会、内務省厚生省の愛国婦人会、文部省の大日本連合婦人会である。意志的な婦人団体を重視した市川は、えせ婦人団体が省庁の利害の押し付けにより婦人の必要性が置き去りにされることを恐れた。婦人団体の統合や再組織化に積極的だった。主婦強化の主張、町内会活用論など、市川が戦争にからめとられた例証と見られることがあるが、主婦強化は若夫婦、妻中心の家族運営、町内会は夫の代理としてではなく、妻自身の資格で参加できる組織であったため、新体制とするためにも訴えかけていったのである。

 戦争への危機意識を高めていくプロセスでは、中国侵略を支持しない。それがより大きな戦争に結びついていくことも理解していたが、日華事変で日本が負けるとまでは考えていなかったようだ。1939年エマ・カフマンとの対話、中国占領地視察、東京女子大での秘密の報告会等々、戦争への危機意識を高める。後に藤田たきは中国占領地視察が市川の考えに大きな影響を与えたと語っている。政府の委員会への参加、国民精神総動員運動、銃後の守りでは、生活の合理化を求める主張を訴えた。 

 従来の市川観では「市川ですら戦争にからめとられた」とするか、「からめとられたがやむを得なかったと許す」のどちらかであった。1910年代に活動を始めて充実期の市川が戦時下にいたことは、市川にとっては残念だったが、日本社会にとっては最も適切な人があの場にいた、あの場にいてくれて本当に良かったのではないかと考えている

 

 1945年終戦、市川らの運動に追い風が吹く。市川の動き出しは早かった。戦後対策婦人委員会の結成、新日本婦人同盟結成。婦人三権の獲得、日本国憲法制定等々高揚感と戦時下にできなかった活動ができる喜びが伝わる。然し47年3月公職追放。市川は自分の活動を邪魔されたと思ったようだ。50年追放解除、日本婦人有権者同盟(新日本婦人同盟を改称)会長として運動に復帰する。最初の訪米の時から婦人有権者の教育、婦人票をどう生かすかを考えていた。政党に中立、地方行政に関わるべき、国際会議に女性を出すなど戦後の活動の多くは戦前に既に登場している。戦争によって遅れて来た、1920年代のデモクラシーを生きた人といえるかもしれない。

 

Ⅲ戦後民主主義下での活動 1952(昭和27)年~1971(昭和46)年

 参議院選挙への出馬要請を受け入れて理想選挙でという条件で立候補したのは1953年。

選挙運動が婦人有権者の政治教育にもなる、選挙を通した発信が重要である、そして院内と院外を結ぶためには議員が必要だとも考えられた。

 1971年の落選と74年の当選、そして市川は再び動き出す。

 

 日本の婦人参政権は占領国によって与えられたものだろうか。獲得したものだろうか。これは日本のデモクラシーそれ自体についても議論されてきたことだが、私は与えられたものだとは思っていない。占領改革には日本政府先取り改革、GHQ指令型、混合型があり、衆議院議員選挙法の改正は日本政府先取り改革だった。日本政府が先ず改革しGHQが許容したもので、ポツダム宣言で改革の方向性はわかっていた。市川は当初戦争に負けて参政権を得たことにやりきれない思いを抱いていた。日本政府先取り改革ということも知らなかったが、すぐに先輩である英米の婦選運動家に感謝することにしたという。占領国でも女性参政権は当たり前ではなかった。厳しい運動の中で獲得して来たものであり、日本でも頭と体を使って運動を進めてきたものである。婦人運動が機能する民主政治を維持していかなければならないと私は考える。

 

 村井さんは最後に本のあとがきに書いたこととして次のように述べた。

 女性の政治参加が進まないのは女性の問題ではなく、デモクラシー自体の機能不全につながっているのではないか。女性のことを慮って政治をするのではなく、女性が政治をしなければならない。代議制は社会のセンサーであり、センサーは機能的でなければならない。 

 私たちのデモクラシーを大切にしましょう。それは歴史の中で私たちの先人や私たちが育んできたものなのだから。昭和100年は私たちのデモクラシーをはぐくんだ100年でした。よかれあしかれ、まだ終わりは見えませんと結んだ。(や)



【イベント詳細】講座・私の市川房枝論「女性の権利の政治外交史― 昭和百年から考える」

【主催者メッセージ】

「婦選は鍵なり」の言葉に象徴されるように、市川房枝は女性参政権を通した女性の権利の擁護拡張に努めました。昭和初年に運動を本格化させ、昭和56年に参議院議員として亡くなった市川の戦前・戦中・戦後に及ぶ活動は時に断続的に論じられますが、5年後に昭和百年を迎える現時点からどのように理解できるでしょうか。

政治外交史から迫ります。市川の生涯、市川に体現された昭和、そして日本の民主政治百年を展望する機会となるはずです。

日時

2021年3月3日(木)13:30~15:15

形式

オンライン(Zoomウェビナー)

※画面に参加者のお名前や顔、声が登場することはありません。

講師

村井 良太氏(駒澤大学教授)

略歴

駒澤大学法学部教授。専攻は日本政治外交史。著書として、『政党内閣制の成立1918-27年』(有斐閣、2005年、サントリー学芸賞)、『政党内閣制の展開と崩壊1927-36年』(有斐閣、2014年)、『佐藤栄作』(中公新書、2019年、日本防衛学会猪木正道賞特別賞)、『日本政治史』(共著、有斐閣ストゥディア、2020年)など。東日本大震災からの復興検証共同研究にも参加。『市川房枝―後退を阻止して前進』(ミネルヴァ日本評伝選)2021年2月刊行予定。

参加費

1,200円(税込)

※支払方法は申込フォームのページにございます。