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私の市川房枝論④「婦人運動を育てる」伊藤康子さん(元中京女子大学教授)

 伊藤康子さんは元中京女子大学教授で、近現代女性史研究者。2005年から2016年まで市川房枝記念会の市川房枝研究会主任研究員を務め、『市川房枝の言説と活動』年表3部作、『写真集 市川房枝』を出版した。『闘う女性の20世紀』『草の根の女性解放運動史』『草の根の婦人参政権運動史』『市川房枝―女性の1票で政治を変える』等の著書がある。

講座では、「市川房枝の婦選獲得運動方針」「市川が婦人運動から逃げなかったのはなぜか」「理想選挙の道を開く」「平和と女性の地位向上のための共同行動」「「市川への一貫した評価」等のテーマで語った。

 

 婦選獲得同盟(←婦人参政権獲得期成同盟会)の第1回総会(1925.4.19)で、市川は運動方針を宣言した。男子普通選挙法が成立し、女性は政治圏外に取り残された。女性は人間として国民として参政権を必要とする。「普選獲得の歴史に倣い、外、婦選獲得の実績に鑑み、一致団結の力」で「目的を参政権獲得の唯一に限り」運動して行くこととする。総務理事久布白落実(日本基督教婦人矯風会)は「小異を捨てて大同につく 婦人の一致した議会への運動」という大まかな方針を示したが、その中身を充実させたのは会務理事市川房枝だった。

 

 どうして具体的な方針を掲げ、思想や宗教も異なる各界の女性たちを運動に誘い込むことができたか。そこには、新婦人協会の経験と反省があったという。平塚らいてうは「女性の権利獲得のため団体活動をすべきときに至った」と総合的、大規模な構想を打ち出し、市川はこの構想を生涯大事にした。新婦人協会は女性の政治的権利を目的とする最初の組織で、その後の婦人運動の基盤になったことの意義は大きい。しかし、構想・組織・資金・活動は活動家全員によって検討、合意され組織的に進められたとは言えないという反省である。

 1921年新婦人協会から身を引いた市川は世界の婦人運動を見るためアメリカへ行く。24年帰国後ILO職員として働きながら獲得同盟の活動もしていた市川は、27年末ILOを辞任。獲得同盟に専念することを決意した。

 

 1930年久布白の総務理事辞任により、市川が総務理事に就任、「名実ともに」獲得同盟の代表になる。市川は運動の基礎である調査、資料収集、読書・研究が好きだったが、「たまたま運動の先頭に立つところに置かれた」。獲得同盟は婦選関係団体、無産婦人団体、市民団体との共同運動を組織したが、後にこの共同行動は「つらかった」し、「大変だった」と市川は述べている。

 運動は公民権を獲得できるのではないかと期待するところまで行ったが、31年満州事変が勃発。25年10月に設立されながら自然消滅していた婦人問題研究所を、39年12月に再建する。研究機関であって実際運動には参加しない、婦人運動の支援機関というべきものであり、これを根拠地に人材育成と資料保存に努力する。戦争がいずれ終ったときにすぐ活動できるような態勢と人材育成であった。40年運動から撤退し、婦選獲得同盟の解消を決定する。

 

 1945年12月、日本の女性は参政権を得た。市川が敗戦直後の戦後対策婦人委員会の結成、新日本婦人同盟(→日本婦人有権者同盟)の結成と素早い立ち上がりを見せたところに、47年公職追放にあい、政治活動が不能になる。追放解除後の53年参院選への出馬に理想選挙を掲げ当選し、在野の3年を除いて81年まで無所属の議員として活動した。衆参婦人議員団(→衆参婦人議員懇談会)、売春防止法制定、連座制強化の選挙法改正提案、ストップ・ザ・汚職議員の運動等々、法律を作る、提案する、あるいは団体を作る。国際婦人年連絡会は平和と女性の地位向上のための共同行動であり、76年婦人参政権行使30周年記念大会は「婦人の1票が政治を変える」のスローガンを、80年国連婦人の10年日本大会では「平和なくして平等なく、平等なくして平和なし」の言葉を残した。72年朝日賞ほか日本だけではなく海外からも多くの賞を受けたが、女性の地位向上と民主主義の確立に尽したという評価は一貫している。

 

 最後に「市川に日本国民が捧げた表彰状というべき『票』」として、6回の参院選の票数、1953年191,539票から1位当選の80年2,784,998票までを列挙し、日本の中で一番の女性政治家だと認められる政治家になられた一生だったと述べた。最新刊『市川房枝』の副題は「女性の1票で政治を変える」。「女性の1票が政治を変える」ではないとこだわりをみせた伊藤さんは、自身の疑問や市川房枝への想いも交えながら語り終えた。(や)